でぃふぁいんどの空間

京都の大学生による戯言

浦島太郎の話

納得がいかないアモラルさ――

 小学生ぐらいの頃から、昔話の中でどうしても納得できない話があった。

それが、「浦島太郎」である。

念のためあらすじを言うと、いじめられていた亀を浦島太郎が助けたところ、竜宮城という場所に連れていかれ、3年間の接待を受けた後地上に帰還すると地上では300年たっていて、絶望した浦島は玉手箱を開けて白髪の老人になってしまう、というものである。

この話に教訓たるものはあるだろうか。まずこの話は勧善懲悪の物語ではない。亀をいじめるという不正義に抗議した浦島が悲劇にあっているからだ。すなわち、この話は坂口安吾が「文学のふるさと」で述べたようなアモラルな物語であると考えられる。しかし、本記事ではこの物語から頑張って教訓らしきものを引き出したいと思う。

 

教訓1

誰かを助けて「あげた」という傲慢な意識は危険である

例えば浦島がただ海岸を歩いていて、亀がいきなり「竜宮城へ案内する」と言ったらどうしたであろうか。確実に警戒するだろう。「知らない人(?)について行ってはいけない」というのは古今東西の常識である。なぜ浦島が竜宮城に連れていかれたかというと、浦島側に亀を助けてあげたという意識があり、そのような自分はそのお礼を受け取って当然だという傲慢があったからだ。

 

教訓2

人間は容易に洗脳されうる

浦島は竜宮城への到着後、ごちそうやお酒をうけとりさらに豪華絢爛な建物や歌や踊りを鑑賞する。圧倒的な非日常感と酒や音楽による判断能力の低下によって、思考能力を失ってしまう。そもそも浦島は釣りによって父母を支える好青年で亀を助けるほどの倫理観を備えているのに、3年も異常に気付かないのは奇妙である。浦島が洗脳にあっていたのは本文中に、「なんということもおもわずに」の記述があることからもわかる。

 

教訓3

絶望による自暴自棄は事態をさらに悪化させる

地上に戻った浦島は300年たった絶望により開けてはならぬと言われたはずの玉手箱を開けてしまう。なぜ開けたかといえば、そこに希望があるかもしれないと縋ったからだろう。しかし、往々にしてこのような自暴自棄から生まれる発想は事態を好転させない。借金で首が回らないからといって無理なギャンブルに手を出すようなものであろう。

 

 

ざっとこんなものだろうか。そう考えると教育的な物語と言えなくもない……か?