でぃふぁいんどの空間

京都の大学生による戯言

バレンタインデーと恋愛自由主義の論理の話

バレンタインデーの本質は不可避な社会的闘争である-------defined(2000-)

 

本日はバレンタインデーです。

2020年現在、日本ではこの日に女性が男性にチョコレートを挙げることが風習とされているらしい。それが製菓企業の戦略であることは有名であるが、今回はそのことはどうでもよい。むしろ、今回取り上げるのは「バレンタインデーにチョコ何個もらった?」問題である。

 

現代は恋愛においても自由主義の論理が適用される時代である。また男女平等の時代にあってなお男女の恋愛の不均衡は大きい。何度も調査をとっても、恋人のいる(いた)割合は男性より女性の方が高い。すなわち、恋愛強者たる「リア充」男性による恋愛の特権的独占が行われている。また、この「リア充」属性の獲得が後天的にはほとんど困難である事にも注目したい。(モテない人はコミュニティが変わっても原則モテない、ということ)実際、アメリカではこのようなリア充属性の獲得が困難な男性(インセルと呼ばれる)たちの先鋭化、過激化が問題になっている。

 

さて、バレンタインデーでは一般に女性が男性にチョコレートを渡すがたくさんもらう人の顔を思い浮かべてみよう。

 

そう、一般にリア充と呼ばれる人々である。では、彼らはチョコをもらうために何か努力をしただろうか。答えは概ねノーである。彼らは彼らゆえにチョコを受け取るのである。にも拘わらず社会的には、チョコをもらう数の多寡で男性の優位・劣位が決まるようである。このような状況が一般の恋愛においても認められると考える。リア充リア充ゆえに恋愛できるし、無根拠に非モテの人々より社会的優位にある。

 

これが、恋愛自由主義の恐ろしさである。またこのゲームからの離脱はなぜか許されない。女性と付き合う気がないなどと口走れば、やれこじらせ男子だなどとの誹りを免れない。自分の不利な状況での勝負などこちらからご免である。

 

また、この「勝負」のなかでは個々のチョコの属性は捨象されがちであることにも留意したい。チョコは男性的優位を示すアチーブメントへと抽象化される。まったく女性を無視した失礼な戦いである。

 

そう考えると、オタクコミュニティでバレンタインチョコを渡す美少女の偶像が共有されるのは一種の救済である。私見だが、日本でまだインセルコミュニティが先鋭化しないのはオタク文化のおかげではないかと思っている。恋愛弱者の受け皿としての機能である。偶像に救いが見出せれば、現実の女性を嫌悪する必要はない。

 

 

 

 

 

高校生のときから疑問に思っていたことを吐き出せてぼくは満足です。個人的なことを書きますと、僕は非恋愛主義者でして、中学生の時からよくある質問としての「おまえは誰が好き?」が理解できませんでした。逆に「どういった経緯で女性に恋愛心を抱いたの?」と質問したいぐらいでした。勘違いさせるといけないのですが、私は同性愛者ではありません。同性相手に性的欲望を向けることはできません。LGBTQのように名詞化されていないだけでこのような人間は社会に大勢いるような気はするんですけどね…………