でぃふぁいんどの空間

京都の大学生による戯言

100日間生きたワニとシンエヴァについて語るという話(ネタバレなし)

純粋に作品を鑑賞することの困難性

 まず、Twitter漫画としての「100日間生きたワニ」に対する私自身の感想("100日目"時点のもの)は、100日間かけて、ハードルを上げたにもかかわらず、きれいなオチだというものだった。100日目にワニが死ぬというオチの核心部分が示されているにも関わらず、納得感があった。

 

以上が僕自身が持つことができた最初で最後の"純粋な"感想だったように思える。これ以降のプロモーションによる炎上、「電通案件」という噂、作者きくちゆうき氏に対する誹謗中傷や裁判での敗訴などはネットニュースなどで知っている人も多いかと思うので割愛する。

 

この騒動を経て、今の僕は「100日間生きたワニ」という作品に対して、大衆意見というものを排した純粋な自分の意思からなる感想を持つことが不可能になってしまった。正直今から映画を見に行ったところで、「世間ではこういわれているけど、~」といった社会的な評価と自己の評価の対比という形でしかこの作品を語れないという悲しさがある。

 

By the way……

 

僕は小学生のころからエヴァンゲリオンという作品が好きで、旧アニメ・新劇場版は通しで何回も視聴してきた。シンエヴァは公開日の一番最初の枠で見に行った。そして作品の余韻に半日ほど浸った。この間に、シンエヴァに対する自分の中の評価を言語化できたと思っている。

翌日以降、TwitterなどのSNSでシンエヴァの感想をちらほら目にした。批判的なものも肯定的なものももちろんあったが、それで自分の評価が揺らぐことはなかった……と思いたい。当日に見に行ったことで「僕だけの感想」を獲得できたといえるかもしれない。

 

インターネットは便利だが、映画の感想といった百人いれば百人が異なるようなものを過度に標準化・均一化してしまう作用があるように思えてならない。シンエヴァの中でもすばらしいと思った点・納得いかない点は僕個人にもあるし、きっと皆にもあるだろう。それは相互に矛盾するものではない。

 

自分の感想というのを持ち続けるというのは特にinternetが発展したこの社会では非常に難しいし、一種のスキルではないかとすら思う。例えば「叩く流れ」、「クソだと断じる流れ」がすでにネット上で形成されていれば、その流れに乗っておくほうが楽だし、僕もその流れに乗った経験がないとは言えない。

 

100ワニおよびその作者を叩くという行為をする群衆を「悪いオタク」などと形容する向きもあるがこの表現には違和感を感じている。「オタク」ってのは本来もっとめんどくさくて、メインストリームに流されず、一人で「嫁」をめでたり、工作に没頭したりする偏屈野郎だったはずだ。これも過度な一般化かもしれないが、僕自身も「オタク」を自称する以上そうであってほしいという願いもある。

 

ただの個人が、社会を超えた超越的視点を持つことは困難だ。しかしそれでも僕は僕自身の言葉で作品について語りたいと強く思うようになった。それは、コンテンツの摂取に対して一種の緊張感をもって臨むということである。どれだけ稚拙なものであっても、インターネットにはないただ唯一の「僕の感想」を持つことに決めた。

 

ゆえに、「100日間生きたワニ」の映画を鑑賞するのは僕にとって、今は適切なタイミングではない。「僕だけの感想」を持つのがあまりに困難だからだ。3年後ぐらいにdアニメとかで見れたら見てみようかな。

 

(ここで気合が入ったので僕の好きな作品「ご注文はうさぎですか?」の「僕だけの感想」を書こうとしたが、どう書いてもクソキショオタクになってしまうので、フィルターを通したうえで近日公開予定である。)